日本ボランティア学会副代表 播磨靖夫
日本ボランティア学会は今年で10年目を迎えます。1995年の阪神・淡路大震災をきっかけにしたボランティアの爆発的な増大、NPO法施行後のボランティアセクターの飛躍的な拡大にたいして、どのような知の体系をつくり上げればいいのか。さらにはボランティアの実践知(経験知)と専門知とが出会うことによって「市民知」という新しい知の地平を切り開くことができないか。こうした問題意識のもとに、栗原彬代表を中心に研究者・ボランティアが参集して本学会が創設されました。小さい学会ながら同時代に生きる人びとに"今"を考えるメッセージを送りつづけてきました。
ご承知のように、日本社会は戦後体制が制度疲労を起こしているところへ、グローバル化、市場化、ハイテク化、少子高齢化の大波をもろにかぶり、社会の存在自体が大きく揺らいでいます。とりわけ、近年、汚職、談合、偽装、隠蔽といった社会の非倫理化が進み、相互不信社会になっています。そして経済効率主義は人間と人間、人間と自然、人間と社会、人間と大いなる存在といった、あらゆる側面のつながりを分断しています。また、文化の俗悪化は目をおおうばかりだし、人間関係の崩壊は人びとのあいだに孤立感・無力感を生みだし、インターネット、ケータイの普及によるコミュニケーション能力の低下は自他の存在感を薄っぺらなものにしています。こうしたことなどが今日の生きにくさをつくりだしているといえるのではないでしょうか。
とするならば、生きにくさの根源をつきとめ、課題解決のための能力を養うことがボランティアの責務であると考えるのです。本学会では、2年前から「社会的排除と市民活動」をテーマに全国各地で講座を開いてきました。東京でも若手学会員を中心に、日本社会が抱える「痛み」をテーマに「cafe連」を連続して開き、問題意識の共有をはかっています。
本学会は設立趣旨の一つとして、社会のシステム化が進行するなか、サブシステンス(自律的生存領域)の再構築をかかげました。この10年をふり返って、どこまでできたのか、という忸怩たる思いがあります。しかし、自律と連帯の精神を兼ねもった市民のネットワークが、日本社会のあらゆるところに張りめぐらされつつあるのを見ると、希望が湧いてきます。このような社会的連帯に私たちの未来があると考えるのです。
10 年目にあたる今年6月28、29日、青森県立保健大学で2008年度大会を開きます。大会のテーマは「饗──あたたかさの交感」です。この「饗(あえ)」という土着的な言葉をテーマとしたのは、共同体崩壊に直面して混迷する今日、それをいかに乗り越えていけばいいのか、という青森の人びとの熱い思いが込められています。
今、世界を画一化、均質化しようとするグローバリゼーションの波が地球全体に及んでいます。シルクロードの子どもたちの遊びを調査しているNPOの話では、子どもたちに最も人気があるのはゲーム機であるといいます。砂漠の子どもと青森の子どもが、同じようなゲームに熱中しているのです。これは生活文化の画一化、そして地域の固有の文化の衰退を意味しています。
このようなグローバリゼーションにたいして、「ローカル」で生きることの意味が改めて問われています。ローカルという言葉を「地方」や「地域」といった地理的な空間に限定しないで、歴史性と固有性のある「生きる空間」と考えてみてはどうでしょう。私たちは私たちの身体をもっている。ある場所で生まれた身体をもった私たちが育つ空間こそ、かけがえのないローカルな空間といえるでしょう。
この空間が、人を人として育てます。この空間とそこで学ぶ知は切っても切れない関係にあります。その知を私たちは「ローカルな知」と呼んでいます。それは時間的にも場所的にも人びとの生きる状況に深く係わり、意味をもちうる知識といえるのではないでしょうか。そこで生きる人びとのあいだで受け継がれてきた思想や生活や文化や技術を集団として持続し、発展させようとする活動は、まさにローカルな知の営みといえます。
今回の青森大会では、「多様性・身体性・地域性」をキーワードに、グローバリゼーションに対抗する「ローカルな知」を学びあいたいと考えています。そこには草の根の伝統のなかに思想の地下水を汲みあげうる可能性がある、それも縄文時代からつづく民衆の歴史のなかにある、という問題意識があります。「足元を掘れば大海に至る」という言葉がありますが、個人が自ら生きる現場性と地域性というローカリティに根ざしながら、グローバルかつローカルな公共問題についても考えてみたいと思います。それはまた、「共同体と個」「社会と個人」という課題をさらに深めて、自己と他者と公共世界の関係性を考えることでもあります。
土着にこだわりつつ、内部から相対化し、発展させていくことに可能性を見いだしたい。そこから「社会と変化の新しいパラダイム」が発見できれば、と願っています。学会員のみなさんはじめ、多くのみなさまの参加をお待ちしています。
青森県立保健大学教員 山内修
来たる6月28日(土)~29(日)、青森県立保健大学において日本ボランティア学会2008年度大会を「饗(あえ)」をテーマに開催させていただくことになりました。「饗」といっても多くの方には馴染みのない言葉かもしれません。実は、私自身も承知していませんでした。
この言葉のルーツを辿れば、日本においては柳田國男に辿り着きます。柳田によれば、地域には固有の祭りがたくさんあり、その祭りの根幹を成す「直会(なおらい)」こそが「饗」であり、そして、「饗」は、神とともに飲み・ともに喰うことで、もう一度「むら」を再生するための「魂」の「交感」の場ともなるのだそうです。
そう考えると、そうした光景は、かつて日本のいたるところにあったような気がします。また、「みちのく・あおもり」においては、今も色濃くそうした光景が日常生活の中で繰り広げられているのではないかと思います。「あおもり」は中央から見ると取り残されているとされがちですが、見方を変えれば、神々と交流し、「魂」の「交感」のできる場所でもあるということです。その意味で「あおもり」は、日本の中で一周遅れのトップランナーなのかもしれません。
是非、「あおもり」へおいでになって、そのことを確かめてみませんか。多くの方々と「魂」の「交感」ができることを楽しみにしております。
国際芸術センター青森 日沼禎子
今、青森は「アートで熱い!」のだそうである。2006年7月に開館した青森県立美術館、また同年開催された「奈良美智+graf A to Z」など全国規模で注目され、アートファンのみならず県外から多くの人々が青森を訪れた。またそれらに先駆け、私が所属する国際芸術センター青森が 2001年に開館し、アーティストと地域の人々とのノードとなるべく活動を続けている。
もちろんこうした動きは、突然に沸き起こった麻疹のような熱によるものではない。青森の土壌が長い間かけて育ててきた人、出来事。それら個々のものが必然として積み上がり、隆起し現れてきたものである。特に注目すべきは、ボランティアをベースにした地域の人々が中心となって、これらの活動を支えていることである。今日的にいえば「アートNPO」と称されるのかもしれないが、そうした組織の形態に関わらず、またアートへ特化するだけではなく、地域振興、福祉、教育などのさまざまな視点からの活動が、ここ青森では非常に盛んなのである。
それはなぜなのか? 生きること、そして個が個であるための意志を貫くことが困難であるこの時代にあって、今、人々はアートがもつ根源的な力を求めている。ボランティアは個が個であることを約束する活動である、と私は捉えている。太古からのエネルギーを抱くこの青森の地で、生きることの根源的な力についてともに語り合い、私たちの未来を描く場になれば、と願っている。
あおもりNPOサポートセンター理事 小山内誠
青森は、「もののけ」世界であると感じている。それも超安息の空間として。恐山のイタコ(むつ市)、久渡寺のおしら様(弘前市)、西の高野山・弘法寺の人形堂(つがる市)など、あの世とこの世をつなぐ物語世界が飛び交う風土だ。しかし、何よりも青森の青森たるべきは、三内丸山縄文遺跡である。あの丘陵地帯に数千年の原日本人たちの生活があり、私たちのDNAの中に縄文の意識が閉じこめられ、そのソフトが今ももののけとして息づいているということが、ある種の誇らしさを覚える。太宰治や寺山修司、棟方志功、淡谷のり子、矢野顕子など、天才的で個性的な才能が全国区で開花したという事実に、超自然的なパワーを感じてしまう。
一方で、三内丸山遺跡に観られる土器などの廃棄で作られた地層にみられる異質性である。あれは一体何か。単なるゴミの山ではない。富める者がその財を意識的に捨てて、地域のレベルに合わせて平等になろうとするムラ社会の「平和」の仕組みであろう。今もムラ社会は、ムラビト意識の結束のため、ムラ祭りをきっかけとして、祭りの役員となる住民宅では、食べきれないほどの酒肴で誰それ構わずもてなし、その財を使い切る。深浦町岩崎地区の「鹿島流し」など、県内各地でそれは見られる。これが、「饗え」だ。地域の平和を維持していくための直観的な作業なのだと思う。そんな平和の中から、特異な能力や技術や感性が高められていく。異能でパワフルな個性がブレイクする。あの世とこの世の結界の中に、「生と死」が同一化する物語世界が展開していくのだ。