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【報告】ARDA主催シンポジウム「アートで介護 アートがひらくケアの可能性」

2012年1月14日 東京・津田ホールにて開催された

NPO法人芸術資源開発機構(ARDA アルダ)主催の<高齢者アートデリバリーの普及のためのシンポジウム>に参加してきました。

 *ARDA 代表の並河さんは、本学会の理事を務めてくださっています

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~ファイザープログラム〜 心とからだのヘルスケアに関する市民活動・市民研究
アートで介護 アートがひらくケアの可能性」

*プログラムなど詳細はARDAホームページをご覧ください http://www.arda.jp/top_koureisha.html#symposium_korei

 

 基調講演は本学会会長の鷲田清一。

「高齢者にとってアートとは?」というテーマにたいし、鷲田さんが差し出したのは「できなくなってはじめてできること」という視点。

近年、アーティストは、社会のなかで”できない”とみなされることの多い人々―こどもや、高齢者や、障害のある人など―の暮らしの場に関わっていくようになってきた。それはなぜなのだろう?という問いかけから、講演は始まりました。

「できないからこそできる」という例として挙げられたのは、歌舞伎役者の坂東玉三郎さんや舞踏家の大野一雄さん、女優の杉村春子さん。彼らは、「そうでない」からこそ、「そうである」もののエッセンスを凝縮して取り出し、自身のなかに取り入れることができた(たとえば、女でないからゆえに、女らしく、女を演じることができる)。

へだたりがあるからこそ、へだたっているものに対し、もうひとつの、しかもよりその本質に迫る視点を提示することができる。

多くのアーティストは、既存のもの・社会・ありかたとは異なるところに視点をもつことで、新しい世界を提示していくことを試みる人たちである。

だとすれば、

アーティストは、そのような”できない”とされる人に関わるなかで、できる/できないで組み立てられた近代社会のオルタナティブ、もうひとつのかたちを発見していくのではないか。

また、神学者ポール・ティリッヒの言葉をひきながら「その人の苦労をなくすことが、その人が生きやすい環境をつくることではない」ということについて話され、

たとえば高齢者にとってアーティストと関わることが魅力的であるのは、自分が肯定されているという実感を得る関わりとなっているからではないか。

たとえば、お年寄りが一人で「できなくなること」と格闘している、その苦労を肯定し、尊重すること、つまり「苦労をともにすること」が、高齢者とアーティストとの関わりのなかで求められていることなのではないか、と話されていました。

これをうけ、第3部のディスカッション冒頭で、ダンスアーティスト・体奏家の新井英夫さんは、

自分にとって、たとえばデイサービスは、目の前に出てきた『体』を感じ取り、反応をする人がいる場。人と人、体と体のやりとりのおおもとの部分に触れざるを得ないことがアーティストとしての自分にとっては魅力的だと話されていました。

第3部ではほかにも、

・アートってなに?芸術と芸能はどう違うの?

・高齢者施設関係者にとっての、アーティストの関わりの必要性とは?

といった論点が示され、参加者からは

・ARADAの活動は、決められたプログラムを持っていくのではない、ワークショップというかたちをとっていて、即興的な要素が多いように感じる。そこが重要だと思うが、その意味とは?

・アーティストとボランティアの違いとは?

といった質問がされていました。

ディスカッションの発言は、どれも興味深いものだたのですが、特に印象に残ったのは、西川勝さんの「人はケアを受けるだけの存在にはなれない。双方向のコミュニケーションが必要」という発言と、ARDA のアートデリバリーによるワークショップを行った上井草ふれあいの家元所長藤山さんの、「ハレとケとして、アートもサービスも両方重要」という発言。

続いていく日常生活のなかで、なにか「楽しさ」や「うれしさ」といったわくわく感を得る時間・瞬間を持つこと、もうひとつのありかた=もっとよいありかたを探ることが、その人の生きることの支えになっていくのかもしれません。そして、「苦しさ」や「かなしさ」を秘めた時間・瞬間を持つことも、同じくらい大切なのでしょう。

第2部で上映された映像(ハンドブックとセットになっています)も、とてもわかりやすかったです!

(報告:井尻貴子)